浦和南を率いて通算18年目になる(写真=河野正)

 だんだんと自分のチームを持ちたくなってきた時だ。開校7年目の89年に浦和東への異動が決まった。サッカーではまったくの無名校だが、監督になりたい思いが先行し、大志を抱いて転勤する。

 ほぼゼロからのスタートだった。土を総入れ替えしてのグラウンド整備をはじめ、好素材をひとりでも獲得しようと中学生のスカウティングにも駆け回った。学校や教員の協力を仰ぎながら、少しずつ力を付けていった。「一番苦しかったこと? すべてですよ」と苦笑する。

 着任7年目、現在J2千葉のヘッドコーチを務める坂本将貴を擁して第74回全国高校選手権に初出場。76回大会も代表となり、98年には関東高校大会、インターハイ、第77回全国高校選手権の各予選をすべて制し三冠を獲得。すっかり埼玉の一大勢力となった。

 坂本のほか、川島永嗣や菊地光将、三島康平や鈴木智幸ら10人のJリーガーを輩出した。5度の全国高校選手権出場は埼玉の公立校では大宮東と並んで4番目に多く、インターハイには7度、全日本ユース選手権(現高円宮杯JFA U-18リーグ)にも1度出場。99年には指導者資格S級を取得している。

 催眠術をかけるように、教わったことを忠実に実行すれば勝てると言い聞かせた。「その上で技術や戦術を発揮するベースとなるフィジカルを徹底的に強化しました」と説明するように体力、走力、キック力は浦和東の代名詞となった。

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