東海大福岡 平清孝総監督

 【第2回】 1981年度の全国高校選手権に初出場し90年度大会では4強入りを果たすなど、東海大福岡(旧・東海大五)を強豪校に押上げ、多くの選手を育ててきた平清孝総監督。この3月末で勇退するその平総監督にサッカーとの出会いから指導者としての歩みなど様々なお話を伺った。

ーー東海大五の当時のサッカー部はどんな状況だったのですか?

 これがドラマみたいな話で。一年契約で「申し訳ないけど一年やってもらってその後は専任の指導者をいれるから」と言われていて、春休みに学校に来て「部員に挨拶します」と言ったらグラウンドに誰もいないんです。そしたら「春休みなんて練習しません」と言われて。やっと新学期になって挨拶したら「おれたちは好きでやっているんだから、専門の指導者なんかいらん!」って素人集団に拒否されまして(笑)。

 拒否されてもグラウンドに行ったんですが、そうしたら草は生えてるは、石ころはゴロゴロしているは、埋め立てた場所なので雨が降ると穴が開いてしまって。「こんなの足が入ったら骨折するぞ!」ということで学校に頼んでケガ防止の為に土を入れてもらって。その間に草抜きして石ころを拾って、グラウンド作りからのスタートでした。

ーー部員の子達から拒否された中でどうやって指導していったのですか?

 「預かった以上は一年間だけでもきちっとサッカーが出来る環境を作ろう!」ということでやっていました。この間OB会をやった時にその子達も来てその話も出ましたね(笑)。

ーー温度差がある中でどうやってその温度差を埋めていったのですか?

 一緒にやるしかないですよね。「みんなで草抜きするぞ!石を拾うぞ!」を一週間続けて、やっとサッカーが出来るとなったんですが、ボールが蹴れない。ゴールラインから蹴らせてもPAを越せないんですよ。半分以上が素人だったんですよね。なので本当にインサイドキックから始めて。今考えたらそれが良かったんですよ。強いチームだったら自分の思い通りに出来なかったので。その時の監督も素人だったので自分の好きなように出来たので。それが昭和52年に大学を卒業してからの一年間でした。

ーーそれを一年間続けた結果どうなったのですか?

 「こんなはずじゃなかった」と言って何人も部員が辞めましたね。彼らは楽しく仲間と放課後に遊ぶ感覚だったので「真剣なサッカーは要らない」と言って。それでも一人凄くサッカーを好きな子がいて。ある時その子がサッカーマガジンを見ていて、僕の大学時代のインカレで試合に出ている写真を見つけて持ってきて、みんなに「この人だよ!本物だよ!」って見せたんですよね。それからちょっとだけ言う事を聞いてくれるよ言うになって(笑)。

 25~6人くらいいた部員が15~6人になったんですが、12月に「残って強くしないか?」と学校から言われて、「この条件じゃ残れない」と返したら、学校から「専任にする」と言ってもらえて。それが45年前ですが、「専任になったからには強くしよう!」とそこから頑張りましたね。

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