東海大福岡 平清孝総監督(写真=東海大福岡サッカー部提供)

 【第3回】 1981年度の全国高校選手権に初出場し90年度大会では4強入りを果たすなど、東海大福岡(旧・東海大五)を強豪校に押上げ、多くの選手を育ててきた平清孝総監督。この3月末で勇退するその平総監督にサッカーとの出会いから指導者としての歩みなど様々なお話を伺った。

ーー平先生も指導者としては駆け出しだった中で、色々な指導者の先生方と出会ってどう変わっていきましたか?

 最初は「強くしよう」というイメージが強くて教え過ぎでした。大学でやってきた事をその子達に全て与えていたんですが、途中でそれは「無理なんだ」と気付いて。こっちが変わらないといけないとわかって、「今できる範囲で技術を上げる」ということをやるようになりました。当時は基礎体力を上げるために走らせたりもしましたし、蹴れるようにする為の練習もやっていましたね。

ーー当時は今とはサッカーも違ったと思うのですが、どういうサッカーを目指していたのですか?

 僕は大学時代に関東でやっていたので、ベンチにまで日本代表がいる法政大のようなチームと試合をしていたのもあって、パスを繋ぐのが「これがサッカーだ」というイメージがあって、繋ぐサッカーを目指していました。その為には正確なキックが出来ないといけないので、そういう練習をしていましたね。

ーー当時の福岡のサッカーはどんな感じでしたか?

 福岡というより九州自体が蹴るばっかりでしたね。当時は若かったので松澤先生や小嶺先生からも「この関東かぶれが!」と言われましたよ。「何しよっとか!ゴール前にボールを持って行かんと勝てるんか!」とね(笑)。

ーーそこまで言われても平先生は信念を貫いたのですか?

 理想がありましたからね。クライフがいるオランダサッカーがちょうど全盛期でしたので。速いサッカーと繋ぐサッカーを一緒にやるトータルサッカー、オレンジ軍団に憧れていましたね。

 やっぱり子供たちが面白くないと。空間ばっかりになってしまうとね。やっぱり勝負なので、それも大事なんですけど、せっかく練習では繋いでいるのに、試合になるとゴール前に放り込むっていうのもなと。「ヨーロッパも南米も違うのにな」と当時から思っていたので、パスで組み立てていく方が楽しいし、「キツイより楽しい方が良いよね」というのはずっと思っていました。

【次のページ】 W杯を観て、「こういうサッカーをしたいな」…