平成から令和へ時代は移った。
夏と冬が一緒に訪れた以上に生活そのものが困難と化している。

でも人間の感情や欲求という本質は100年,200年経っても変わらないのではないか。

サッカーが好きで好きでしかたない選手が減っているように感じてしまう。

サッカーをやっている子どもはみんなサッカーが大好きだと言うだろう。
サッカーをやっている子の親もまた、うちの子はサッカーが大好きなんですと言うだろう。

時間でグランドへ来て、時間で帰る。
お金を出して、サッカークラブで教わって、コーチ達とフレンドリーに会話してそれで終わり。家に帰ればサッカーの事ではないことに頭も身体も無意識に切り替わっている。

本当にそれでサッカーが好きなのだろうか。
君のサッカーに対する感情や欲求はあるのだろうか。

人のサッカーを観ているよりも、自分がサッカーをすることが好き。
高校選手権決勝観に行くよりも、Jリーグ観に行くよりも、ボールを蹴っている時間の方が好き。

見えない所でサッカーをやり続ける選手。

サッカーは誰の為なのか。

サッカーはなんなの?

誰がやるの。

関わる人間達がもっともっとサッカーの本質を感じるには、もっともっと下の年代に関わっていかないといけない。

失礼ながら、それがないから、上の年代に行けば行くほど、試合に勝つ、優勝、その為の選手獲得となり、選手は辛さ、耐えることとの戦いがメインとなっていくのではないか。

サッカーに向き合うコラソン(心)の問題は選手達ではなくて、育成年代の、表現する側の、関わる大人達の問題だ。

サッカーの心に火を灯す。
火を灯すにはその大人が火を持っていないと。
自分の火を少年に灯してあげないと。
それ無くして、システムや戦術理解はありえない。

今一度考えるべきだ。

サッカーが好きで好きでたまらない子どもが育つ環境をみんなで作りましょう。

(文・写真=田畑雅宏)