26歳の若さで引退した。ひざの手術をしたほか、工作機械製造を営む家業を引き継ぐため、入社5年目の81年1月に富士通を退社。それから間もなく仲西監督から浦和西のコーチ就任を依頼され、87年まで後輩の指導に当たった。

 基本的には国際審判員の仲西監督が、国内外の大会で不在時に母校を訪れた。引退したばかりとあり今井氏は、「体が良く動いたので実技指導はほとんどこなし、紅白戦も一緒にやりました」と振り返る。

 高校生を育てるに当たり、最も気を遣ったことを尋ねると、早大時代に薫陶を受けた堀江忠男監督の教えだった。「何と言ってもハートですよ。勝つために闘争心は不可欠だが、ファイトが高じるだけでは駄目。心は熱く、頭はクールに戦うことを求めました」と信条を述べると、高い技術力の必要性も説いた。

 中でも「止める、蹴るは永遠のテーマで、ボールをぴたっと止められないと質の高いサッカーはできない。技術の向上を随分と要求しました」と高校生と向き合った当時の様子を解説すると、「私がボールを完ぺきに止められるようになったのは24歳ですがね」と舌を出して笑った。

 今井氏が1年生で参加した藤枝フェスティバルの藤枝東戦。個人的にはそれなり出来だったが、試合に敗れた悔しさから相当落ち込んだ。そんな姿を見た仲西監督は帰路の車中、「今井、そんなにがっかりすることはないぞ」と声を掛けてくれた。「これをきっかけに発奮しなさい、というメッセージ。ありがたかった。私もできるだけ生徒に寄り添うことを心掛けました」と恩師の言動を手本にしたそうだ。

 コーチ就任3年目の83年、第62回全国高校選手権予選で7年ぶりの決勝進出。先制したものの宿敵・浦和市立に1-3で逆転負けし、5度目の出場を逃した。それでも最終年の87年には予選2位で悲願のインターハイ初出場を果たす。国泰寺(広島)と韮崎(山梨)の名門を連破し、3回戦では光星学院(青森=現八戸学院光星)に0-1で惜敗した。

 今井氏にとってこのインターハイが、長い指導者の道に踏み出す転機となった。視察に訪れていた早大の大先輩で元国際審判員の安田一男氏に「来年から早稲田のコーチを頼む」と言われ、88年から母校の指導に当たった。

 浦和西での7年間の経験を生かし、早大や富士通、東京ガスでコーチを務め東京ガスとJ1川崎ではそれぞれコーチから監督に昇格。台湾代表では男女の指揮を執り、早大やモンゴル、スーダンU-20などの代表監督を歴任した。アジア各国のクラブでも指導し、「まさか自分がこれだけのキャリアを積むなんて夢にも思わなかった」と苦笑する。

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