話を戻しますが、僕の1つ上の代くらいから大学へ進学することも日本でプロサッカー選手になるための選択肢のひとつ、という流れが出来てきたように思います。FC東京の平山選手が国見高校から筑波大学へ進学したのが思い当たる人もいると思います。
それでも、高校卒業後、または大学卒業後すぐに海外に行くという選択肢、その考え自体、ほとんどなかったのではないでしょうか。
僕も進路はプロになること以外全く考えていなかったのですが、結果としては大学進学を選びました。数チームのJクラブへ練習参加させて頂いていた時、自分が通用する自信を掴む実感があったのと同時に、本当に自分のレベルがプロでやっていけるのかという両方の気持ちを持ちました。高3の1年間は膝のケガで1シーズンテーピングを巻きながらプレーしていたことも自信を持ち切れなかったひとつかもしれません。大学進学を決断した後にJクラブから声を掛けて頂いたのですが、その決断を覆すほどの思いは持てませんでした。
進学後はトップチームに入ったのが3年の時、レギュラーとして試合に出たのは4年になってからです。4年の時はキャプテンでした。
この時の進路もJリーグチーム以外は考えておらず、JFLや地域リーグは選択肢として考えていませんでした。ダメだったら就職浪人でもしようかと考えていましたが、それ以上にどこか必ず入れるだろうという自負がありました。
しかしそれも現実にはならず、ここまで来たのにこんなんじゃ辞められないだろうという思いが残ったので、監督に頼み込んでJFLの佐川印刷のテストを受けさせて頂き、JFL開幕1週間前に入団が決まりました。
2シーズンプレーした後、Jリーグ加盟を目指すチームでプレーしようと思いチームを退団しました。当時関東2部のSC相模原に入団したのですが、シーズン前に膝の靭帯を切ってしまい、1年のほとんどをリハビリで過ごしました。シーズン終了後、契約は更新されませんでした。
その頃に初めてサッカーをプレーするための選択肢が「海外」へ向いたと思います。僕の場合どちらかというと、次は海外に行くしかないという気持ちが強かったです。その後、HBO東京(http://www.hbotokyo.com/)という「選手の海外移籍支援」をコンセプトとしているクラブのサポートを受け、そして今年、カンボジアリーグのチーム、BBU(Build Bright United)への入団が決まりました。
結果的に高校卒業後、大学卒業後も目標であったJリーガーにはなれなかったので、じゃあその選択が失敗だったのかという点については、あくまで結果論なので考えること自体があまり意味のないことかなと思っています。それ以上に、何を考えて目標に取り組んだか。そして都度真剣に自分の思いに向き合い、そこから何を得たのかが大切であって、少なくとも今の自分のサッカー人生にとっては全てがプラスになっています。
今回は自己紹介ということで、この辺りで。次回はカンボジアサッカーについてと、海外でプレーする事になるまでの過程について皆さんに伝えていきたいと思います。ありがとうございました。
■カンボジア豆知識
人口1470万人
面積は18万平方キロメートルと日本の2分の1弱。
おもな産業は農業、縫製業。最近では外資系企業の進出も増えている。アンコールワットが有名。
■カンボジアサッカー事情
サッカーは人気が高いスポーツで、プロリーグも設立されている。ASEANサッカー連盟には1998年に加入。2013年にはJリーグとパートナーシップを結ぶなど、東南アジアで存在感を増してきている。