
1992年度の高校サッカー選手権では得点王に輝く(写真=河野正)
3年生の10月8日、埼玉選抜として臨んだ山形国体準決勝で負傷。空中戦で競り合った時、静岡選抜GKのパンチングが首に当たり、頚椎骨折で気絶した。同31日から全国高校選手権埼玉大会2次予選が始まるというのに、両手足がビリビリとしびれて練習できなかった。開幕してもベンチスタートが続き、準決勝と決勝では先発したものの、まともに動くことができなかった。それでも予選6試合で3得点。武南は決勝で大宮東をPK戦の末下し、3年連続で全国選手権出場を果たす。
怪我を抱えたままの大舞台は不安だった? 「それが違うんです。満足に動けないので余計な力が入らず、プレッシャーも感じなかったから点が取れたんだと思う」と回想。
熊本農との1回戦で1点、神戸弘陵との2回戦では3点を奪い、3回戦でも韮崎工から2ゴール。南宇和との準々決勝、国見との準決勝で1点ずつ奪って計8得点とし「3回戦が終わったあたりから意識した」という得点王の座を射止めた。
すべて出色の得点と自賛する中でも、1回戦の先制点は別格という。山下通のシュートがバーに当たり、その跳ね返りを右足ボレーで捕らえた。「力まずミートすることを意識した。練習を重ねても1回決まるかどうかという、最も難易度の高いゴールでした」と鮮明に記憶する。
天は江原に二物を与えた。サッカーが達者なばかりか、アイドルばりの甘いマスクで女の子に追い回された。2、3年生のバレンタインデーは自宅近くに100人以上が集まりパトカーまで出動。学校周辺は鈴なりの女子で練習にならないと、大山監督が怒りまくった伝説の持ち主だ。
卒業した93年にJリーグが開幕。江原も複数のクラブから声を掛けられたが、頚椎の痛みや大山監督の助言もあって中央大に進学した。しかし首の痛みは腰にまで及び、手足がしびれたほか、無理な動きをすると神経に激痛が走った。2年秋まで在籍したが、プレーできたのは春まで。大学も3年生の6月に辞めた。