指導者としての道を歩む江原淳史さん(写真=河野正)

 1992年度の第71回全国高校サッカー選手権で得点王に輝いたのが、武南(埼玉)のエースFW江原淳史だ。8ゴールは大迫勇也(鹿児島城西)の10点、平山相太(国見)らの9点に次ぐ歴代3位タイ。怪我で引退した後は芸能界に進んだがやりがいを見出せず、サッカー界に復帰し指導者に転身した49歳の現在に迫る。

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 帝京や大宮東など複数の強豪から誘われたが、進学先は武南しか考えていなかった。「小さい頃からスマートでエレガントな武南の試合を見て、カッコいいなあって憧れました」と話すと、「でも練習はそんな姿とは正反対で、泥臭くて半端なくきつかった」と笑いながら往時を述懐した。

 推薦組の逸材が春休みに集まった練習で、江原は大山照人監督に鼻っ柱をへし折られる。「態度が生意気だったんでしょうね。入学してからも試合には帯同できず、全く相手にされなかった。あいつはもう駄目だな、って周りは感じていたそうです」と苦々しい思い出を明かす。

 この一件をきっかけに部活動が終わって帰宅すると、自主練習を午後11時まで7カ月間毎日続けた。自宅近くの小道で敵がいることを想定したドリブルをたっぷりこなすと、母校の小学校に移動して明かりの灯る職員室近くにあったシュート板に納得いくまで蹴り込んだ。

「推薦入学なのに干されたことが悔しくて、恥ずかしくて、みっともなくて……」と厳しい表情になり、「ただこの感情が芽生えなかったら、レギュラーも得点王も取れていなかった」と振り返る。秋には実力が認められ交代で起用され始めた。

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