写真:清水知良

――プロ入り後はずっとプーマですか?
 僕はガンバ大阪からプロのキャリアをスタートさせたんですが、当時のガンバはユニフォームがデサントで、デサントがアディダスを扱っていたので、1年目はアディダスのスパイクを履いていました。けれど、あまり履いたことがなかったからか、馴染みが良くなくて……。そんなときにU-19日本代表に呼ばれて、当時は代表のサプライヤーが持ち回りだったじゃないですか。

――プーマ、アディダス、アシックスの3社が1年ごとに代表、年代別代表、女子代表などのサプライヤーを交代で担当していた時代ですね。
 で、ちょうど僕の選ばれたU-19日本代表はプーマで、パラメヒコを履いたんです。やっぱりパラメやなあ、いいなあ~と思ったんです(笑)で、プーマの人に履かせてくださいとお願いして、プロ2年目に契約をしてもらったんです。それからずっとプーマです。

――99年のワールドユースでは、確かこの年からアディダスが日本代表の全カテゴリーのサプライヤーとなり、U-20日本代表となった播戸選手たちも、全員がアディダスのスパイクを履いていましたね。
 そうそう、僕も黒×白のコパ・ムンディアルを履いたんですけど、あまり合わなかったです。コパムンはアディダスの名品ですけどね。
 パラメのほかにもね、『デルムンド』とか『セラレータ』とか、コンサドーレ札幌でプレーした時期に違うスパイクを履いたことがあります。2001年に銀色を使った『セラレータ』を履きました。

【次のページ】 カラースパイクを?