――そんな裏話があったのですね。岡田選手と言えば、攻守にアグレッシブな姿勢が真骨頂ですが、FC東京のアカデミー時代もそのプレースタイルでしたか?

 変わっていないですね。ジュニアユースに入った時は一番下手だったんですよ。僕がいた小学校のチーム(国本小SC)は強くはなかったし、世田谷選抜として出たフジパンカップでたまたま結果が出て声をかけてもらった感じで。FC東京に入ったら周りはナショナルトレセンとか関東選抜の子ばかりで、初めは圧倒されました。中学1年の時から生き抜くのに必死でした。とにかくできることを一生懸命やろうと。それは今も変わっていないですね。

――周りとのレベルの違いを痛感しても腐らずに続けられた原動力はなんだったのでしょうか?

 周りの人のおかげですよ。いろんな方に助けてもらいました。今でも忘れないです、ジュニアユースに入団した当初に丸山(浩司)コーチに泣きながら電話したんですよ、「俺、もっと上手くなりたいです」って。そしたら「じゃあ練習前に早く来い」と言われて。そこから全体練習が始まる2、3時間前にグラウンドに行って練習に付き合ってもらっていたんです。丸山コーチ以外にもいろんなスタッフやチームメイトが気にかけてくれたし、ユースに上がってからは倉又(寿雄)さん(当時U-18監督)に本当に寄り添ってもらいました。僕が鹿屋体育大に行ったのも、倉又さんと同じ体育教師の免許が取りたかったからなんです。ホント、人に恵まれていましたよね。

――全体練習の2、3時間前から……凄いですね。

 ユースの時はチームの練習が終わった後も最後まで自主練して、いつの間にか時間が経っていて、家に帰るのは23時半とかでしたね。本当に必死にやっていたのを覚えています。

――周りの協力があったとはいえ、誰よりも多く自主練をやり続けられる姿勢は素晴らしいです。やはり負けられないとか、悔しいとかそういう想いが根底にはあったのでしょうか。

 そうですね。中学の時はどうしてもユースに上がりたかったし、高校の時は試合に出たい気持ちがすごく強かった。その想いでやってましたね。

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