当時の生方修司氏とFW中村敬斗(写真=三菱養和提供)
サッカー部の大澤英雄監督から競技を続けるなら、NEC山形(現モンテディオ山形)かYKK(現カターレ富山)のどちらかを選ぶよう進言された。教員になるか、選手を取るかのはざまで心は揺れた。
大学4年の時、三菱養和の千歳船橋スクールでアルバイトをしていた。そんな折、当時の責任者から「卒業後の身の振り方は決まったの? もしまだなら子どもと接するのがすごく上手だし、社員で採用するからうちに来ない?」と誘ってもらった。子どもを教えることに喜びを感じていただけに、教員も選手の夢も吹き飛んで二つ返事でお願いした。
活動拠点だった巣鴨スポーツセンターを初めて訪れた時、「子どもたちが先輩・後輩の垣根を超え、楽しそうに動き回る光景に感銘を受けました。私たちの時代のサッカーって“きつい”とか“きついけど仲間がいるから楽しい”というものでしたが、巣鴨では純粋にサッカーを楽しんでいた。自分もこんな環境でやりたかったなあ、ってうらやんだほど笑顔がいっぱいだったんです」と新鮮に映った当時の情景を説明する。
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