写真=大西貴氏提供

ーーそれは初耳の話ですね。もう少し詳しく聞かせてください。

 選手権優勝を目指す中でのインターハイが3位に終わった後、最初は2年の西田(吉洋・元Jリーガー・プロビリヤード選手)が「辞める」と言い出したんですよ。「もうイヤ。飽きた」って(苦笑)。それで2週間練習に来ない間に同級生や僕らが「まだ選手権も優勝していないし、自分たちが頑張らないといけないんじゃないか?」説得して、彼は練習に戻ってきたんです。

 ただ、その直後に今度は3年生のAチームに入れていない選手が退部届を出してきたんです。その理由は彼ら3年生が洗う試合用のソックスをレギュラーだった1・2年生が裏返しにしてそのまま出すといったマナーの部分。小学校時代から性格も知っている同級生の本心を聞き出せていなかったこと。そして彼が僕らに話をせず石橋先生に退部を申し出たことは、すごくショックでした。

 そこで僕らは石橋先生に教官室へ呼ばれて退部届を見せられた時「一週間待ってください。説得します」と言ったんです。そこから練習後には毎日、自宅から10キロ以上離れている彼の家に行って「なんとか一緒にやろう」という話をしました。1・2年生も彼のところへ行って謝罪して、彼はチームに戻ってきたんです。

 ここで僕が思い返せたのは「キャプテンというものは全体だけを見るのではなく、細部に目をやって困っている選手がいないか考えなくてもいけない」ということ。親やチームメイトとも話をして、みんなは僕のダメなところも指摘してくれた。結果、Bチームを含めた結束もこの出来事をきっかけに深まったし、僕もみんなに助けられた。

 「責任」とは自分だけのものではない、周りを見ることが大事なことを気付かせてくれたみんなには今でも感謝していますし、僕の今を築いてくれているのは間違いなくみんなだと思います。

ーー今振り返れば、そこが全国制覇への大きなターニングポイントだったのかもしれないですね。

 そうかもしれません。インターハイ・準決勝の清水市立清水商(現:静岡市立清水桜が丘)戦では勝ちきれなかったですから。実際、チームが1つになってまとまったことで、その後の練習での雰囲気や質は急激に良くなりました。石橋先生が来ない時の練習がむしろ自分たちで厳しくできるようになったんです。

 Bチームの選手たちがAチームに「そんなんでいいのか?」と求めてくるし、石橋先生から与えられた練習も自分たちで試合に即した内容になってくる。グラウンドでのミーティング、選手間でのコミュニケーションも普通にやっていました。

 そんな僕らを見てグラウンドに足を運んでくれる地元のおじいちゃんたちも「先生がいない方がお前らエエ練習しとる」と言ってくれる。すなわち「やらされる」から「自分たちでやる」への進化。「1つになってまとまる」が、その時なされたということだと思います。

 選手権の決勝戦前もそう。ベンチ入りできなかた3年生たちが「絶対に勝てるから」と言ってくれたことで、僕らは武南(埼玉)に先制点を奪われても慌てることがなかった。みんなの助けで優勝できたんです。

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