大西貴氏

 かつて「不毛の地」と言われた四国地区サッカー界に燦然と輝く栄光。それは1990年1月8日・東京国立競技場で決勝戦が行われた「第68回全国高等学校サッカー選手権」における南宇和(愛媛)の初優勝である。

 当時34歳だった石橋 智之監督の下で地域が一体となり、そこで育った選手たちが成し遂げた四国高校サッカー初の偉業は、その後に石橋氏が尽力した愛媛FCの設立のみならず、現在の四国のサッカー界に絶大なる影響を与えている。

 では、全国頂点を極めた「南宇和メソッド」とはいかなるものだったのか?あれから30年が経過した今だからこそ言える逸話なども含め、当時のDFリーダーで主将、サンフレッチェ広島や京都パープルサンガ、愛媛FCでの現役生活などを経て、現在は会社員と同時に松山工コーチ・松山大監督を務める大西 貴氏に聴いた。

「強くなる環境にあった」南宇和の土壌

ーー地元・愛媛県愛南町から育った大西さんですが、まず石橋 智之監督が率いる南宇和高校に進むまでを教えて頂きますか。

 まず僕にとって大きな影響を与えてくれたのは城辺中時代の河野(雅行)さんとの出会いです。その先生から基本的なことを教えて頂きました。今考えれば中高一貫教育的な環境で、しかも強要はされず、朝から晩までリベリーノ(ブラジル代表)、オヴェラート(元西ドイツ代表)のような海外サッカー選手のような技術的な部分を粘り強く学ぶことができたんです。これが後に活きてきました。

 その他にも当時の愛南町では一本松中や御荘中には今村先生や、森岡(知昭)先生という方もいらっしゃって、本当に熱心に基礎を教えて頂いた。ここが自分たちのスタートになったと思います。そして石橋先生は小学校時代からずっと自分たちの試合を見に来ていた。いろいろな方々が関わる中で自分たちが育てて頂いた。これが自分たちがあの場所から全国制覇できた第一の要因だと思います。

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