1年目は国際審判員だった監督の北村央春の下で補佐役を担い、翌年には早くも監督に就任。全国高校選手権予選は2年続けて2次予選リーグに進んだが、いずれもブロック3位で決勝トーナメント進出を逃した。
「7時半からの朝練習を毎日こなし、徹底的に鍛えました。戦術はもちろん、何でもほかのチームとは違うスタイルにしたかったので、ユニホームはどこも着ていないえんじ色にしたんですよ」
指揮を執って3年目の全国高校選手権予選は、初めて1次予選敗退。古市は殻を破ろうと、西部地区とさいたま市など南部の中学校に手書きの封書を送った。生徒さんを練習会に参加させていただきたい、という趣旨だ。「面白い監督がいると噂が広がり、少しずついい選手が増え、富士見プリメイロやカムイなどクラブチームの選手も入ってきました」。中学校の公式戦では審判を志願し、指導者に顔を覚えてもらった。
監督になって10年目の13年、統合により校名がふじみ野に変わった。節目の年に全国高校選手権予選で13年ぶりの8強に進んだほか、翌年のU-18県リーグ2部(S2)昇格まで果たした。準々決勝で敗れた相手が武南。内野はまだコーチだったが、11年後にその内野に誘われて武南を指導することになるのだから、縁とは不思議なものだ。
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▽第104回全国高校サッカー選手権埼玉予選
第104回全国高校サッカー選手権埼玉予選

