前回は日本でのサッカー歴についての内容でした。

 今回はサッカー選手としてプレーする場所の選択肢が海外へ向き始めてから、どのような日々を過ごしたか、そして契約に至るまでの過程についてです。僕は海外でプレーすると決めてから実際に契約に至るまで2年を要しました。

 その2年間について経験した事をお話したいと思います。

 2012年、SC相模原で1シーズンプレーしました。約8カ月のリハビリを終えて膝の怪我も完治し、トップコンディションでプレーが出来るようにもなりました。しかし、12月の地域決勝大会を最後にシーズンを終えた後、来季の契約は更新されませんでした。

 Jリーグ入りを目指すチームで昇格して、Jリーガーになるという目標を持ってチームに加入。しかし解雇という現実。次は何を目標にして、何を求めてサッカーをするのか?同じようにJリーグ入りを目指すチームに入るのか?この現実に向き合った時、二つの考えがありました。

 一つは、同じ目標に進むならば、地域リーグ、もしくはJFL(当時はまだJ3は発足されていません)でチームを探すこと。この点については、上のカテゴリーを目指す志向であれば、すぐに考え得る選択肢であると思います。

 そしてもう一つは、海外でプレーをすること。ところが、自分が海外でプレー??正直これまでに考えたことはありません。それこそ、夢くらいのものでした。しかし、大学を卒業してから3年間の環境が、選択肢を海外へ向ける大きな要因になりました。少し時間を遡りますが、ご容赦ください。

 JFLでプレーしていた時は、選手は全員社員契約で、午前中に練習をして午後から仕事をするというスケジュールでした。JFL以下のカテゴリーではフルタイム勤務の後に練習をするチームが数多くあります。僕は営業に配属されていたので残業もありましたが、半日はサッカーに打ち込める時間がありました。他のチームに比べたら、仕事はするもののサッカーをしながら生計を立てる事が出来る、恵まれた環境でした。

 そして、SC相模原に加入しますが、当時の選手は半分以上がアマチュア契約。選手は皆それぞれで仕事を探したり、スポンサー企業で働いたりと、生計はサッカーと別に立てなければいけない環境でした。

 自分の目標に沿ったチームでプレー出来る事になったものの、企業チームでプレーしていた以前と違い、目標に向かうための糧は全く別の仕事で賄う現状。勿論のこと、広く見たら他の競技スポーツに比べ、「サッカー」はプレーを継続するという点で様々な面で恵まれていると思います。しかし、実際に自分がその立場に身を置いた時、目標は明確なので毎日やりがいはあるけれど、趣味と仕事の違いと言うのか分かりませんが、そこで疑問に思う自分がいました。今はサッカーをするために仕事を探さなければいけない。それに体が資本である以上、どんな仕事でも良いというわけではありません。

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