渋谷教育学園幕張中学校・高等学校は海浜幕張から徒歩10分のところに構える(写真=多田哲平)
――どう土台を作ったのでしょう。
高校サッカーは教員も熱くないとダメ。戦術どうこうだけでは上手くいかない。毎日グラウンドに出て、生徒を連れてきて、「おし、やるぞ」と気合を入れて、一緒にボールを蹴りました。「負けたらなんでも言うことを聞いてやる。そのかわりお前が負けたら俺の言うことを聞けよ」とけしかけてね。血気盛んな子が多いから、それが一番効く。
私は東洋工業(現サンフレッチェ広島)でプレーしていたので、生徒の誰よりも走れたし上手かったので、負けるはずがなかった。初めはそうやって生徒が部活に顔を出す環境を作り、土台を築きましたね。毎日喧嘩していましたけど、今思えば楽しかったですよ。
――成果はどのくらいで現れましたか?
3年目で初めて県大会に出ました。私が入った時の1年生が3年生になった時ですね。それからはスポーツ推薦の枠も使うようになって、ブラジルから留学生も連れてくるようになった。さらに2、3年後くらいには県の決勝に行きましたよ。
――1990年度の選手権予選ですよね。就任からわずか5年で県の決勝に出るのは凄いです。
県大会に出るようになってからはトントン拍子でした。初めて県の決勝に行った時のことは今でも覚えています。市船とやってPK戦で負けてしまったんですよ。試合では押していたのに最後に勝ち切れなかった。その時にこれが伝統校の強さかと感じましたね。
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