玉井朗監督(©拓殖大学麗澤会体育局サッカー部)

 1930年に創部された、伝統のある拓殖大学麗澤会体育局サッカー部。コロナ禍という通常とは異なる状況の中で開催された2020年シーズンは、2部リーグで2位という成績をおさめ、2021年シーズンは11年ぶりに1部リーグで戦うこととなった。チームカラーであるオレンジ色のユニフォームをまとう“燃える集団”を率いる玉井朗監督にインタビューを敢行した。

ーーまずご経歴を簡単に教えていただけますでしょうか? 

 サッカーをはじめたきっかけは小学生のころですね。仲町小学校というところでした。毎日公園でボールを蹴ったりして友だちと遊んでいました。本格的に“サッカー”と呼べるようなものをやり始めたのは5年生くらいからですね。1955年生まれなんですけど、当時は今と比べるとサッカー人口も少なくて。浦和市(現さいたま市浦和区)で生まれ育ったんですけど、まだクラブチームのようなものもほとんど無かったような時代です。今では数多くありますけど。当時は埼玉大学のサッカー部が強くて、当時の市役所の近くに教育学部があったんですね。子どもの頃はそこに行って学生さんたちにサッカーを教えてもらっていました。教育学部の学生たちなので、子どもに優しく教えてくれるんですね。

 そこから常盤中学校に進んでサッカー部に入りました。中学の時は浦和選抜にも選ばれたりしましたね。元日本代表監督の西野朗(現タイ代表監督)とは同期ですね。彼が原山中学校というところに通っていて、よく常盤中と原山中は試合をやっていましたね。

 高校は県立浦和に進学しました。国体の候補にも入ったりしていました。当時は浦和南とか浦和市立とか浦和西とかがサッカーが強くて、浦和のレベルは高かったですね。全国的に見ても埼玉県のレベルは高かったと思います。

 大学は筑波大学に進学しました。当時は東京教育大学からの移行期でしたね。大学の時は3年生、4年生のときは学生選抜にも選ばれていました。で、その後大学院に進んだんです。当時はまだJリーグなんてありませんでしたから、当時の自身の選択肢としては企業でサッカーをするか、大学院に進んでサッカーをするかしか無かったですね。学生選抜にも選ばれたこともありましたし、いくつかの企業からもお声掛けいただいたのですが、教員になりたいという夢もあったので大学院に進学しました。サッカーは埼玉県教員サッカークラブ(現さいたまサッカークラブ)に入ってプレーしていたんです。

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