IPU・環太平洋大学サッカー部・桂秀樹監督(写真提供=IPU・環太平洋大学サッカー部)
2007年に創立されたIPU・環太平洋大学。新鋭校ながらもJリーガーを輩出するなど中国地方の強豪としても注目を集めている。チームを率いるのは横浜フリューゲルスや川崎フロンターレなどでプレーした、元Jリーガーの桂秀樹監督。今回はそんな桂監督に、指導者を目指したきっかけや指導者として大切にしていることなどについて話をうかがった。
ーーまずは桂監督のご経歴を教えていただけますでしょうか?
徳島県の徳島市の津田町というところで生まれました。じつはその津田というところは、かの有名な歌手の米津玄師さんの出身地です。年齢は大分離れていますけど、もしかしたら同級生に米津というのがいたので、関係があるかもしれないですね。実家は近いと思います。
話は逸れましたがそこから徳島市立高校に進学し、その後大阪体育大学に進学しました。大阪体育大学卒業後、1992年に横浜フリューゲルスというチームに入団。1993年にJリーグが開幕して、三ツ沢での開幕戦では後半の途中から現在の(JFA)技術委員長の反町(康治)さんと交代して出場しました。フリューゲルスには5年間所属し、1994年に天皇杯優勝を経験しましたけど、最後に消滅する年の天皇杯優勝の時には川崎フロンターレに移籍していました。
川崎フロンターレには1997年に入団し、J2の初代優勝を経験、J1昇格も経験しました。川崎フロンターレで5年ほどプレーした後、JFLに所属していた東京佐川急便というチームで2年間現役を続けましたが、膝の怪我の影響もありその後引退しました。
引退後は、サガン鳥栖で2004年から指導者としてお世話になり、トップチームのコーチを1年間務めさせてもらったあと、ユースの監督とコーチを任されました。サガン鳥栖では計5年指導に携わらせてもらって、2008年からIPU・環太平洋大学で監督をしています。
IPU・環太平洋大学は2007年に開学したのですが、当時監督を務めていたのは小山哲司さんという方でした。当時日本代表の監督だったイビチャ・オシムさんが脳梗塞で急に倒れられて、白羽の矢が立ったのが岡田武史さんでした。そして岡田さんと早稲田大の同級生で、岡田さんがコンサドーレやマリノスでの監督時代の良き相談相手でもあった小山さんに、日本代表のサポート役としてオファーがかかり、1年でIPU・環太平洋大学を辞められることになりました。当時、小山さんとは直接面識はありませんでしたが、もう一人早稲田大の同期であった現在仙台育英サッカー部で監督をされている城福敬さんからIPU・環太平洋大学の監督をやってみないか」という連絡をいただきました。
城福さんは徳島県の出身で、私が小学生の時に、トレセンで城福さんにサッカーを教えていただいていました。そんな城福さんからのお誘いに、「挑戦してみようかな」と思い監督をお引き受けさせていただきました。