東海大福岡 平清孝総監督

 【第1回】 1981年度の全国高校選手権に初出場し90年度大会では4強入りを果たすなど、東海大福岡(旧・東海大五)を強豪校に押上げ、多くの選手を育ててきた平清孝総監督。この3月末で勇退するその平総監督にサッカーとの出会いから指導者としての歩みなど様々なお話を伺った。

ーーサッカーとの出会いから伺えますか?

 サッカーとの出会いは中学2年の時で、それまでは色々なスポーツをやっていたんですが、行き着いたのがサッカーでした。

ーー当時の中学生の間ではサッカーの人気はどれぐらいのものだったのでしょうか?

 当時はJリーグもなくまだ日本リーグの時代で、僕は福岡市内にいたんですがまだまだ人気は低かったです。柔道、バスケ、バレー、アイスホッケーと多種目を転々とやっていて、父親の仕事の関係で転勤が多かったので、中学でも転校をして。最初はバレーをやっていたんですが、後ろのグラウンドで楽しそうにサッカーをやっているんですよ。それで「こっちの方が面白そうだな!」と思ったのが動機で、中2(城西中)の時にサッカーに転向しました。そしたらいきなり「GKをやれ!」と言われて(笑)。

ーーサッカーのルールだったりは知っていたのですか?

 前の中学のクラスにサッカー部の子がいたので、サッカーのイメージはあったんですが、まさか自分がやるとは思っていなかったのでそこまで詳しくは知らなかったですね。

ーーおそらくイメージはGKではなくてFPの方でしたよね?

 そうなんですよ(笑)。僕も走り回る面白さをイメージしていたんですけど、ボールもろくに蹴れないので先輩に「GKをやれ!」と言われて。そこから無理やりキーパー練習をさせられて。足は速いし身長もそこそこあったので、CFをさせてもらえれば人生が違ったと思うんですが(笑)。今でもその先輩には「GKじゃなくてCFをやらせてくれていれば、釜本2世になりましたよ!」って言うんですが、「馬鹿言ってんじゃないよ!」と言われます(笑)。

ーーサッカーを始めてすぐに面白いと思えましたか?

 先輩たちが県大会で優勝していますし、県内でも強い中学校だったのでほとんどボールが来ないんですよ(笑)。だからサッカー自体の楽しさよりも、仲間とサッカーをやっている事が当時は楽しかったですね。

ーー高校時代(東福岡)はどうだったのですか?

 高校はバスケットボールをやろうと思っていたんですけど、いつの間にかサッカー部に入ってグラウンドにいたんですよね(笑)。東福岡が創部4~5年のまだ弱い時代だったんですが、結構上手い連中が集まっていたので、「一生懸命やろうか!」ということで、3年の時は結構強くなって、福岡の中部地区では優勝出来たんですが、選手権予選の準決勝で福岡商業に負けてしまいました。

ーーそれでもベスト4まで行ったのですね!日体大時代はどうだったのですか?

 大学は3年の時にインカレで優勝したんです。2年の時は準決勝で法政大に負けて。3年の時は1回戦しか出ていないんですが、4年時はフル出場して準決勝で逆転負けでした。それで日本リーグに行くか教員になるかとなったんですが、4年の時に早稲田戦でケガをしてしまいましてその心配もあったし、日本リーグに行ってもあの頃は30歳で引退の時代でしたし、父からも「無理はせんと」と言われていたので、教員を選びました。

 大学の同級生がヤマハに2人行ったんですが、その一人がジュビロの監督にもなった鈴木政一だったんです。僕が教員になって選手権に出た時には、開会式の後にヤマハの天皇杯決勝をスタンドで応援して、その時は「おれもやっていればよかったな」と後悔というか複雑な心境でした。今となってみれば指導者になって正解だったと思うんですけどね。

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