磐田東を率いる山田智章監督(写真=多田哲平)

 令和4年度全国高校サッカーインターハイ(総体)静岡予選。県1部リーグ所属ながら、3回戦で常葉橘、準々決勝で浜松開誠館といずれもカテゴリーがひとつ上のプリンスリーグ東海勢を下すと、準決勝では、昨夏全国ベスト4で、今季プレミアリーグWESTに所属する静岡学園をPK戦の末に撃破。そして決勝ではまたもプリンスリーグ東海勢の藤枝明誠を打ち破った。

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 痛快な快進撃で16大会ぶり2度目のインターハイ全国出場を決めた磐田東。その注目校を率いるのは山田智章監督だ。

 教員生活30年目を迎える指揮官は、いま何を想い、選手たちと接しているのか。

 全4回に分けたインタビューの第1回では、指導者を志したきっかけや高校時代を振り返る。

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――まず経歴から教えてください。

 サッカーを始めたのは小学3年の時。2012年にお亡くなりになった堀田哲爾先生(静岡県のサッカー普及に貢献し、「清水サッカーの生みの親」といわれた)がまだ若い時にうちの小学校(清水市立江尻小)に赴任してきたことがきっかけで、本格的にやり出しました。ポジションは身長が大きいからという理由で自然な流れでGKになり、5年生の時には旧・清水市の選抜チームに入ったりもしました。

 そして、そのまま中学の部活動で続け、高校は清水商(現在は統合して清水桜が丘)に進学。高校時代は最終的にレギュラーにはなれずに終わってしまったのですが、縁あって当時日本リーグの本田技研(現・Honda FC)にお世話になることになりました。

 ただ私を誘ってくださった桑原勝義監督が、私が入団する直前で辞めることになり、私は1年で退部しました。ただ会社には残ったまま仕事をしていたんですよ。その後、24歳の時に、桑原さんが今のサガン鳥栖の前身であるPJMフューチャーズを立ち上げるということで私に声をかけてくださって、そこでもう一度サッカーをやり始めました。

 一方、その頃には高校の指導者になりたいという想いがあったので、PJMでプレーしながら通信制の大学に通って教員免許と大卒の資格を取って、平成4年から磐田東にお世話になることになりました。

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