――柳沢監督がユース年代だった頃と、今のユース年代の選手たちで大きな違いを感じるところはありますか?
そうですね。現役時代も「自分は自分」という考え思いでプレーをしていたように思います。当然いろいろないい選手のいいプレー、いい部分を学びながら、自分で盗んでいったりなどはありましたけれども、基本的にはシンプルに「自分のできるプレーをやる」ということを心掛けていました。
尊敬する選手がいたとしても、その選手のプレーを真似するというのではなくて、自身のプレーをより磨いていく。そういうところが大事なんじゃないかなと考えていましたね。そういう中で、周りの指導者の方だったり一緒にプレーしていた選手だったりが、さらに引き出しを増やしてくれたことで、成長していけたのかなと思っています。
円陣を組む鹿島アントラーズユースイレブン
――柳沢監督がユース年代だった頃と、今のユース年代の選手たちで大きな違いを感じるところはありますか?
とくにクラブチームなどは、いろいろなシステムや戦術的な部分、立ち位置など今のトレンド的なサッカーが多くなってきている中で、自分たちが優位性を持ってサッカーをすることは良いことだとは思うんですけれども、育成年代の選手をにいいて型にハメ過ぎることに関しては、自分自身やや疑問を感じるところもあって。例えば、ある程度決まったそういうポジションを取れば、もしかしたら自分たちがプレッシャーを受けずに相手を剥がしていけるのかもしれないんですけれども、ただそれって自分の主体性というよりは、決められたことをやっているような部分もあるなと感じていて。
逆に守備の機会が少なくなったりとか、球際の攻防が少なくなったりとか、世界で戦うためには守備の強度とか、球際の強さというのはとても求められると思いますし、そういった強度の中で、いかに技術を発揮できるかというところが、すごく重要だと私自身は考えている部分があります。そういった意味では、いろいろ戦術的にやるチームもありながら、自分たちはもっと大事な「戦う」という部分ところに、プラス「技術」というところをメインに指導しています。
――柳沢監督自身の高校時代の思い出、印象に残っていることなどを選手に共有するということなどはあったりしますでしょうか?
とにかくトレーニングを一生懸命やっていたというところですね。自分自身で上手くなりたいと思って、自分自身が率先して行動を起こさないと上手くいかないと思うので。「やらされている」という感覚ではなくて自分自身でその夢を掴みにいくというところがすごく大事なのかなと思います。
私自身の高校3年間(=富山第一)を振り返ってみると、チームには当時では珍しかったヘスス・ロドリゲス・ブラドというウルグアイ人のコーチがいたんです。ある意味プロのコーチのもとで指導を受けていたんですけれども、そのコーチもFW出身ということもあって、いろいろな動き方、ボールをもらう前の予備動作だったりを、その時に初めて教えてもらいましたったいうか。シンプルなことなんですけれども、それでも「こんなに変わるんだ」ということを身に染みて感じて。それをトライしていくことで、どうやったら背後でフリーになれるとか、相手が嫌がるプレーはどういうプレーなのかということを考えるようになったんです。そういうちょっとしたきっかけを与えてもらうことによって、自分自身が考えてサッカーをするようになったこともあって、自分もそういう風に指導することができたらという思いでやっています。
――柳沢監督自身、W杯に出場したり海外でプレーされるなど、「世界」と戦われてれて来ましたが、そういう経験などを選手に共有するということなどはあったりしますでしょうか?
そんなに多く伝えることはないですね。いま指導している選手たちが生まれたのが2003年とかそれくらいなんです。なので2002年の日韓W杯などは、まだ生まれてないですし、自分がやっていた時代を知らない選手がほとんどなので(笑)、それを言ったところで通じない部分もあるでしょうし。ただ、上に行った時の厳しさ、強度の高さなどは、自分の体感や基準としても残っていたので、「その強度だどまだまだ上に行くのは難しいよ」など、そういったアドバイスをしたりはしますね。その基準値をもとに、選手たちに求めるところはもっと求めていきたいと思っています。
次回#3では盟友・小笠原満男テクニカルアドバイザーやプリンスリーグでの戦いなどについての話を紹介する。