四日市中央工サッカー部(写真=四日市中央工提供)
一方、高校時代の僕は永輔の横で守っていたセンターバックです。当時は役割は決まっていたし、小倉(隆史)は右サイドから45度の位置でシュートを放てばほぼ入るので、僕はボールを奪ったらボランチの中田にボールを渡し、あとは後ろから眺めていればゴールになる。「それぞれの役割を果たす」が自然とバランスを保つ要因になっていました。
ただ実は……。3年の選手権直前・清水商(現:清水桜ケ丘)との練習試合で僕は右腕を複雑骨折してしまって。樋口先生が現役時代に本田技研でプレーしていた縁で浜松までタクシーで運んでくれて何とか選手権が終わるまで手術を伸ばす方向でプレーしていたんです。決勝戦でも帝京の松波(正信・元ガンバ大阪)のマークは僕で2失点。それでも信頼して使って頂いた城先生には本当に感謝しています。
その後は大学経由でJリーグを目指しました。ひざの故障もあってタイミングをつかむことができなかったんですが、その中で「樋口先生のようなサッカーだけでない、人間性も作る指導者になりたい」と思って、非常勤・常勤講師をしたり、30歳から2年間・三重大で体育教師の免許を取りにいったりして32歳の時、三重県の教員採用試験に合格しました。
最初の赴任先は上野商(現:伊賀白鳳)。サッカー部を立ち上げて、選手と一緒になりながらチームを作ってきました。「試合をしてくれるありがたみ。生徒をその気にさせる大切さ」はここで学びましたし、今にも活きています。そこで5年間を過ごしてから、2010年度に人事異動のタイミングで四中工に来ることになったんです。ここで樋口先生が監督、私がコーチの立場でかかわることになりました。
樋口先生は僕にとってサッカーの教科書。かつすごい実績を積まれているのに、トレーニングや選手に対して謙虚に取り組むんです。私がよく覚えているのはトレーニング後に「ああ、今日のトレーニングはダメだった」と反省している樋口先生。うまくいかないことは環境や他人のせいに絶対にしない。自分に振り返る。さらに選手たちへの接し方、コンディション管理含めて突き詰めていくと新たなアイディアが生まれてくる。「指導者とはこういうものなんだ。だからこそ四中工の選手たちは伸びていくんだ」と感じました。