「マイアミの奇跡」のメンバー松原氏

 1996年のアトランタオリンピックでブラジルから大金星を挙げた「マイアミの奇跡」のメンバーで、その後海外を中心にプレーされた松原良香さん。引退から11年。現在は解説者としてなどのメディア活動や自身で設立されたジュニアユースのマネ―ジメント、高校サッカードットコム杯の企画など幅広く活躍される一方で、筑波大学大学院人間総合学科学研究科スポーツプロモーション・システムマネジメント専攻に在学中。そんな松原さんの現在と、高校時代の経験・思い出や今の高校生たちに伝えたいことを伺いいました。

――現役引退されて11年ぐらい経ちますが、現在のお仕事は?
 今は隔週で筑波の大学院の社会人コースに通って、スポーツプロモーションを学んでいます。そのスポーツプロモーションの中にスポーツマネジメントやスポーツヘルスなんかも含んでいます。それが火曜日から金曜日まで毎日、18時20分から21時過ぎまで。グループワークをやるときもあるので、そうなると22時30分まで。土曜日は復習で9時30分から17時までありますが、週末は静岡のスポーツ番組、SBSテレビの「みなスポ」をやらせていただいているので13時30分ぐらいまで。そんな感じで勉強中ですね。

――解説とかもされていますよね?
 Jリーグの解説はスカパーさんで週末やらせてもらっています。あとは静岡の番組(前述の「みなスポ」)。それは静岡のスポーツを盛り上げるってことで、自分がメインでやらせてもらっていて、その局が民放でジュビロ(ジュビロ磐田)やエスパルス(清水エスパルス)とかを取り上げるときはしゃべらせてもらっています。あと夜はセリエAの解説とかヨーロッパのとか。だから解説、メディア系は多いですね。

――現場にも出られているんですか?
 現場は、フェリーチェ F.C. 浦安っていう、自分が作ったジュニアユースのチームが新浦安にありまして、それがもう9年目ぐらいになります。そこのマネージメントは自分がメインでしてて、今年からは代表者兼総監督という立場でも動いています。

――今回、セカンドチームが中心に参加する第2回高校サッカードットコム杯にもご協力を頂いておりますが、大会の重要性をどのように考えられていますか?
 部活とクラブチームが共に試合を出来る貴重な場だと思いますし、日の目を見ていない選手への出場機会や新しい人材発掘のためのいい大会だと思っています。

――ところで、松原さんのキャリアのスタートは日本じゃなくてウルグアイですよね。その経緯は?
 僕たちの時は、世界に出るってことがなかったじゃないですか。そしたら西野さん(西野朗、現:日本サッカー協会技術委員長)と山本昌邦(現:日本サッカー協会技術副委員長)さんが、「世界で勝つためには外国へ行け」と。僕は高校卒業して、阪南大学に進学したんですけど、すぐに辞めまして。それで、自分でヤマハ(現:ジュビロ磐田)や本田(現:本田技研工業フットボールクラブ)、清水(清水エスパルス)に行って、入れてくれって頼んだんですけどダメで。どうしようかなって思ってたら山本さんから電話を頂いて、「俺らは世界大会に出ないといけないから、お前海外行ってこい」って言われました。どこに行くんですかって聞いたら、「周りに日本人がいないとこがいい」って言われて、ウルグアイになりました(笑)チームは紹介です。

――現役中、何度か海外行って日本行ってを繰り返されてるじゃないですか。それにはどんな理由があったんですか?
 やっぱり世界で活躍したいってのはありました。ウルグアイに行ったら、一緒にやってた仲間が「来週からイタリア移籍するからさ」とかを生で目の当たりにするんですよ。それで、その選手が半年後帰ってくると、車がすごくなってたり、ものすごい家住んでいたりとか。そういうの見ると、サッカーって世界のスポーツなんだって肌で感じましたね。

――オリンピックで「マイアミの奇跡」を起こした時のチームってどんな感じだったんですか?
 ゾノ(前園真聖氏)がキャプテンで、ハット(服部年宏氏)が副キャプテンで、ヒデ(中田英寿氏)がいて、松田(松田直樹氏)がいて、今でも SC相模原でプレーしている能活(川口能活選手)もいて、城(城彰二氏)もいて。個性的でしたね。サッカーをやっていて、みんなそれぞれ個性がありました。

――皆さん引退されて、色々なジャンルで活躍されてるじゃないですか。要因はなんだったんですか。
 サッカーも生き方もやっぱり当時のメンバーで共通しているのは自分があることですね。みんな人に流されないタイプの人間でした。それが一番の要因だと思います。

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