南葛SCのMF関口訓充

 帝京を卒業後、ベガルタ仙台、浦和レッズ、セレッソ大阪で計18シーズンにわたって活躍してきた。Jリーグでの成績はJ1通算225試合・12得点、J2通算247試合・20得点を誇る。スピーディかつ力強いドリブルと、ここぞという場面で発揮される勝負強さが光るアタッカーで、2010年、2011年には日本代表に選出された名手である。

 そんなMF関口訓充というプレーヤーがタフさを培ったのが名門・帝京での3年間。過酷な日々の練習を積み、2年次にはインターハイで日本一に輝くと、10番を背負った3年次のインターハイでも準優勝と好成績を残した。「あの頃があったから今がある」と語る高校時代を振り返ってもらった。

――高校時代を振り返って、率直に苦しかったですか?それとも楽しかったですか?

 そりゃもう苦しかったですよ。

――苦しいほうが強いですか。

 もはや苦しさしかなかったですね。勝たなきゃいけないプレッシャーが常にありましたし、負けた時には走らされたし、先輩は怖かったし、すべてにおいて思い出されるのは辛い記憶です。

――なかでも辛かった経験は?

 走り込みはかなりきつかったですよ。2年次の茨城総体(インターハイ)の前に張った御殿場キャンプでは、本当に「死ぬんじゃないか」ってくらい走り込みました。暑いなかで水分も取れず、ずっと走っていましたからね。口の中が乾いて舌が上手く動かせない感覚って普通の人は分からないですよね。でも水分がなくなると、舌がくっつくんですよ。あの時はみんなそんな状態で喋れなくなってしまって……本当にしんどかったです。

 でも、そういう追い込みがあったから、試合では「俺たちはこれだけやってきたんだから、負けていられるかよ」っていう気持ちを持って臨めていた。2年次の総体は結局全国制覇をして、綺麗な話で終われるところはあるんですけど、やっぱり死にそうなくらいやったからその成績があったのかなと。だから都大会でも「休みのある高校に負けられるかよ」って思っていましたよ。根性論ですけどね。でも1年間ほとんど休みがないような日々だったので、そういうメンタリティになりますよね。

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