水戸ホーリーホック取締役GM 西村卓朗氏。クラブの拠点「アツマーレ」のピッチをバックに

 J2水戸ホーリーホックの取締役GMを務める西村卓朗氏。浦和レッズに入団後は移籍した大宮アルディージャでレギュラーとして活躍すると、退団後はアメリカでもプレー。日本に戻ってからは指導者も経験している。そんな西村氏に日本とアメリカのサッカー環境の違いや、指導者として感じた難しさなどの話をうかがった。

ーー大宮アルディージャ退団後はアメリカでのサッカー生活にチャレンジされましたが?

 大宮アルディージャに移籍して1か月後、少し遅めの27歳の時にJリーグデビューするんですけれども、そのままレギュラーに定着して、引き分け後の試合に負けてからは、その後ずっと勝ち続けて、今考えればすごいことですが、なんと13連勝してJ1に昇格したんです。そういう、「急に上手くいく」という現実をほとんど経験していなかったものが、2004年の途中から一気に良くなったんです。

 2005年に関しては初めてJ1に上がって、浦和レッズとの「さいたまダービー」もあって。その時は「浦和を見返してやる」とか「自分がこれだけできるということを証明する」という力みがあったところから「浦和の時があったから今の自分があるんだ」という感じで受け入れられて。自分自身がそういう状態でした。

 2005年度に初めて上がったJ1初年度は、チームの中でも自分が出場率がいちばん高かったんです。レギュラーでしたしパフォーマンスも良くて。で、意気揚々と臨んだ2006年のシーズンはケガをしてしまって。それでも欲しくて欲しくてやっと掴んだレギュラーでしたし、他の選手にポジションを渡したくなかったので、焦って無理やり早く復帰したんです。

 結果的にはそれが良くなくて、痛みを庇いながらやっていたら、2006年はあまり試合に出られなくなって。2007年は準レギュラーというか20試合くらいスタメンで出ていたというシーズンだったんですけれども、ただケガの痛みはどんどん増していって。結局パフォーマンスは2006年以降落ちていって、パフォーマンス的に若い選手に敵わなくなっていって、2008年に契約満了になったんです。

 痛みはあるけど「もう少しサッカーをやりたい、体もまだ何とか動きそう」となった時に、「新しい環境で」という思いが強くなったんです。海外でサッカーをやってみたいと。それでチームを探してトライアウトを受けようと。そこからは自分的に「チャレンジの人生」になっていくんです。

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