水戸ホーリーホック取締役GM 西村卓朗氏
ーーアメリカと日本で感じた違いなどはありましたか?
色々な違いがありました。「Jリーグがいかに恵まれているか」ということは感じました。今まで自分がやってきたJリーグのレギュレーションは他の国では当然当たり前ではないですし、「こんなに整備されていたんだ」ということを感じました。
シンプルに移動とかは大変でしたね。アメリカの移動ってとんでもなく長くて前日練習は無いこともありますね。それでも試合はやるんですけれども。Jリーグの時の常識からは考えられないんですけれど、そういうタイムスケジュールになっているのでしょうがなくやるんです。なので自分がどんどん変化していかなければいけない感じでした。固執していたり囚われていたりするとまったく上手くいかない。ストレスが溜まっていくだけ。どんどん変えていかなければいけないということを学びました。
それと、これはアメリカと日本の違いではないんですけれども、自分がいかにマイノリティであるかということを知れたことも一番大きかったですね。当時のアメリカのチームには10か国近くの選手がいて、何となくではあるんですけど「この国の選手はこういう雰囲気なんだ」というのを知ることができましたね。言葉はもちろん、宗教や、生活習慣、ライフスタイルへの考え方など、日本人の自分がいかに、標準ではないかということを痛感する日々でした。
ーーその後浦和でコーチをされてVONDS市原FCで監督もされて。指導者として感じた難しさなどはありましたでしょうか?
指導者には現役中から興味があったので、現役の時にB級ライセンスまでは取得していました。アメリカから戻ってきて最後は北海道コンサドーレ札幌でキャンプに参加しトライアウト受けて1年プレーするんですけれども、今思えば、現役時代でトライアウトを7、8回受けているんです。そういうことを経験できたことは良かったと思っていて。自分でキャリアを切り拓いていく、見つけていくということを最後の数年はやり続けていました。
「引退後は指導者に」ということは考えていたんですけれども、まず自分がやりたいポジションに就けるかというと当然ですがそんなに簡単ではなくて。ニーズがあるかどうかをいくつかのチームに連絡したところ浦和のハートフルクラブが興味を示してくれたので、ぜひお願いしますと。そこでまず小さいな子ども達への指導を中心にコーチをやらせていただきました。
とはいえ監督やマネジメントサイドにも興味があったので、そういうニーズを探していたらVONDS市原FCから監督兼選手のオファーをいただいて。引退してまだ1年経っていなかったのでプレーもできたとは思うんですけれども、自分の中ではサッカープレーヤーとしてはやり終えたという思いがあったので、「監督とGMをやりたい」と交渉したところOKしてくれて。同時に浦和レッズにも相談し、自分の考えや、思いを伝えたところ、VONDS市原FCへの挑戦に対して、理解を示していただけました。
指導者として難しかったのは、選手としては自分がプレーするので、自分がどうするかが重要だったんですけれども、監督やGMの場合、当然結果は人を介して出ることになるんですね。「人を介して表現する」ということはコミュニケーションが必要になる。コミュニケーション自体は不得意ではなく、むしろ得意だと思っていたんですけれども、最初は「相手の話を聴く」ということに苦労しました。
相手が何を感じているのかを察したり聞き出したり、彼らが自分に主張している意味ということを受け取りながら傾聴することが難しかったなと。今でこそその重要性はわかりますけれども、「相手がやりたいことは何だろう?」とか「何故こういうことを言うんだろう」とか、最初は相手の意図を汲むということが難しかったですね。
次回#4では水戸ホーリーホック、西村氏が見据える今後の目標などについての話を紹介する。