水戸ホーリーホック取締役GM 西村卓朗氏。ブルー基調のユニフォームが映える

 東京であれだけの施設を持っているということがすごかったと思いますし、それに応じて当然レベルの高い選手も集まっていましたので。指導者の質も高かったと思います。かといって変な押し付けなどはなく、子どもたちの個性を伸ばすという三菱養和の方針が自分に合っていたなと。

 ありがたいことに中学校の時に日本選抜(U-14)に選んでいただいたりしたこともあったんですけれども、三菱養和で自立した時間を過ごしていたので、そのまま三菱養和でやりたいと思うようになっていったんですね。

ーー当時のポジションはどこで、どんな選手だったのでしょうか?

 比較的変らず、昔からSBをやっていましたね。ただ成長が遅くて背も小さく、筋力もスピードもなくて。帝京にいっていたら「潰れていたんじゃないかな」と思うことはありますね。

 小学校6年か中学校1年の時に1990年のイタリアW杯があったんですけれども、本当に感動して。当時はもちろん動画などを今のように簡単に見られませんでしたので、録画した映像を何度も何度も見て。自分自身スピードは無かったんですけれども、そのイタリアW杯で3人の選手に釘付けになったんです。

 その3人というのが、西ドイツのリトバルスキーとイングランドのプラット、イタリアのドナドーニだったんですけれども、3人に共通していたのが、今でいうダブルタッチ。「相手が奪いに来た瞬間にかわす」ということが上手くて。それを見て、「このフェイントだったらスピードの無い自分でも抜けるかも」と思って、そればっかり練習していました。

 なので当時はドリブルが得意でテクニックがある、ボールを失わない、相手が来てもかわすことができる、という選手でしたね。

 次回#2ではプロ入りを叶えた経緯や、プロで主力として活躍できた理由などについての話を紹介する。

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