現在はセパタクロー日本代表ヘッドコーチやDAH運営責任者を務める(写真=多田哲平)
ただ初めはアスリート雇用での事業拡大が上手くいかない時期が続き、少しずつ会社を辞めていく人が出てきて、結局僕1人だけになってしまったんです。それでも僕は会社に恩を感じていたし、仕事に不満を持っていなかったので、そのまま続けながら少しずつ人を集めてチームの立ち上げに漕ぎつけた感じですね。
――どうチーム立ち上げまで漕ぎつけたのですか?
1人になっても仕事と競技を一生懸命続けていました。その僕の姿や成果を見てもらって、少しずつ信頼と理解を得ていって、それに加えて、僕が新しく呼んだ後輩たちが頑張ってくれたので、会社内で『セパタクローの選手たちはいいね』と言ってもらえるようになって、社長も含めて会社全体で非常に前向きに捉えてくれました。そこでチームの立ち上げを提案しました。自分が会社にサポートしてもらっているうえで、会社をPRするためにも、会社の看板を背負ってプレーできる環境に変えることが必要なのかなと。
――1人になった時によく心が折れなかったですね。
競技環境を整えるのは、結局自分のためもありますから。阪神酒販でチームができるまでは、朝8時から夕方5時まで働いて、そこから電車で1時間~1時間半かけて移動して、クラブチームで夜18時から21時まで練習。そこから帰宅して色々やって寝るのはてっぺんを超えていました。そんな生活を続けていると、やっぱり体に負担がかかりますよね。でも企業でチームを作って近くの体育館を取れば、移動時間は少ないし、勤務時間のなかで練習に行く調整ができたりと、時間の調整も上手くできるようになりました。そうなると体の負担は減ってきた。もちろん企業の実業団として活動するので、外に出ていく費用も経費として認められる。そのサポートも大きかったです。
第3回へ続く